↑ネットでよく見るコトバですね。
はい、というわけで自己紹介と言う名の自分語り、やります笑
最初はプロフィールにちょっと詳しく書いたらそれでいいかなーと思ってポチポチしてたら思いの外長くなって「これここに書かんほうがええな」ってなってブログに移した次第です。
あと、Twitterとかでよく「ふぁぼされた数だけ音楽歴を語る」とかそういうふぁぼ数やリツイート数に応じて自分の(黒)歴史出していくタグとかあるじゃないですか。たまに自分もやるんですけど140字に収まらなくて普通にリプ垂らしまくってたし、他の人のやつ見ててもリプ追跡するの結構しんどいし(でもまあTwitterってそう言うコンテンツだし)でまあここなら誰かが見る見ないに関わらず気の済むまでダーーーって書けるし、って感じで書きます。
はい、てことで今度こそ自己紹介という名の自分語り笑
生まれは京都です。高校まで育ちもずっと京都市内でした。一人っ子で血液型はB型。一時血液型別の取扱説明書流行りましたよねー。僕も多分に漏れずB型のと、あと一人っ子の取説もあったので買って読んでました。
↑こんなやつ。
幼稚園時代は有名な永観堂にある幼稚園に通っていました。ここで鼓笛隊をやっていたので比較的音楽との出会いは早かったかなと思います。記憶にあるのはマルチタムのトリオとかテナードラムとか背負って叩いてたかなあ…
あと市バスが大好きで、よく停留所やバスの方向幕の漢字を書き写したり、当時遊んでたプラレールをバスに見立ててみたり、車内アナウンスを真似たりしてました。おかげで漢字が読めるようになったのはかなり早かったと思います。
小学校。小2の6月で一度引越しを機に転校しました、といっても同じ区内なんですが。最初の2年間は軽くいじめられていた事もありあまりいい思い出がありません。転校後の4年間は児童館に通っていた事もあってそれなりに充実していたと思います。児童館があったから友達も増えたって感じでしたね。4年生からは音楽部に入り、いわゆる器楽合奏をしてました。この時はアコーディオンのおもしろさにはまってアコーディオンばっかり弾いてました。あと教育用のバスマリンバも珍しくてよく眺めてたなあと今も記憶にあります。
あとびっくりされるかもしれないんですが、実は音楽部と同時に陸上部にも入ってました。親に半ば強制的に入らされたもので、当時はほんとに走ることがイヤ過ぎてどうサボるかばかり考えていました…。でも不思議なことに高校の辺りから走ること自体は好きになり体育の授業でも積極的に走るようになります。
たまごっちに鬼ハマりしてて、赤いシリーズのやつが確か初めて持ったやつなんですけど周辺のおもちゃ屋に電話や聞き込みするくらいの欲しさで、けど近隣は全滅、当時は未知の領域だった岩倉の木野駅付近にあるおもちゃ屋さんに電話してようやく在庫を確認、わざわざ電車乗って買いに行きました。その後も複数買って、今でも実家には計4機あります(電池切れ)。
中学生。
小学校であんだけ音楽してたんだから、さぞ中学では吹奏楽部に入るんでしょうと思いきや、ぜぇーんぜんその気なかったんですよね僕(笑)。なんならコンピュータ部に惹かれて入ろうとしてました。するとそこで親がまた「あんだけ音楽部やってたんやから吹奏楽部やりや」と突っ込んできて、気は進まない中最終的には入部したんですね。それが今じゃこうなってるんだから人生分からない。
しかしここで大問題発生。全く吹奏楽部に興味のなかった僕は仮入部期間一度も体験に行かずいきなり本入部だったので楽器の名前がどれが何だか分かりません。けれど自己紹介で希望楽器を言わないといけない。迷った挙句に僕の口からひねり出たのは…
「…打楽器(パーカッション)希望です」
パーカッションのパの字も知らず、でも他にやれそうな楽器がない(あっても名前が分からない)ので苦渋の決断。今でもたまーにこれを言った時の部屋の雰囲気を思い出してはカーッと恥ずかしい気持ちになります。こういうのっていつまでも引きずるんですね。何歳まで引きずるんだろう。
で、一旦はパーカッションに配属されるんですが人数超過ということでオーディションをすることになったんです。見事落選した僕は次の楽器を選ばなければなりません。
そしてこれは自分でも理由はよく覚えて無いんですけど、ここで自然にホルンを選んだんですよね。他にも候補になる楽器いくつかあったはずなのに、どれにしようかあまり迷った記憶がありません。そしてこれが現在に繋がるホルン人生のスタート。
それからというと。
みんなと同じ中庸とされるマウスピース、ヤマハの32C4を楽器屋さんに一括で頼んでいたはずなのに自分の手元に届いたのは一回り小さくてカップが深い31D4(こればっかりは今も真相が分かりません。当時はそれこそ???状態で使っていました。今思えば高音キツかったのそれのせいかなあ)。先輩の金リムに憧れて中2の時には31のカスタムを買いました。更に中3になると一回り小さい30のカスタム(金リムに味をしめた)、府大会後には当時発売したての練習用マウスピースを買うなど、この頃からマウスピースへの沼っぷりは凄まじかった。更にいうと、中3の時のコンクールで中学で3,4年ぶりとなる府代表に選ばれた訳なんですが、関西までの中休みの時期に遊びでチューバをバカ吹きしてアンブシュアを崩してしまい、その後練習用マウスピースが何故か1番フィットしたのでそれで関西大会に出ました(!!!)今思うと完全にヤバイ奴でしかない。
ちなみに関西大会前に毎年恒例のサマーコンサートがあり、そこで当時流行していた矢島美容室のニホンノミカタを裁縫が得意な保護者の方が作ってくれたガチ衣装でカツラも付けてガチコスプレで踊り歌いました(メドレーの中の一曲でサビのみ)。背が高いからという理由でセンターでした。今の時代じゃ絶対出来ないと思う。
部活引退後、受験を考え始めるわけですが、先輩が受験したことがあったのもあって音楽高校をぼんやりと考えていました。しかし受験科目にピアノがいると知って、当時習ったことが無く独学で遊びで弾いてた自分には無理だと悟り普通科の高校に進学することに決めました。付近の高校のオープンキャンパスに行って、部活動体験もして、ここならいいかなと思ってプロフィールにも書いた洛北高校に決めました。当時の受験制度だとそこに行きたくても行けない仕様だったので(バス停方式※俗称 といって、受かると自分の自宅に1番近い高校に自動的に割り振られます。ただし専門学科やII類と呼ばれる理系文系コースは別で、いわゆる総合コース的なI類がこれに該当しました。つまり高校受験はあくまで高校生という学籍を手にできるかどうかの試験、受かればあとは向こうに委ねるしかないという状況だったのです)、部活動推薦を使って受験して合格しました。ちなみに部の成績が良く、中2の時に府の吹奏楽連盟の選抜バンドにオーディションで受かって出たことがあったのもあって私学の高校の顧問の先生から直々に打診を受けたこともありましたがどれだけ特待や減免をつけても金銭的に無理だったので辞退しました。当時公立は授業料は無料だったしね。
そんなわけで中学卒業するんですけど、さっきピアノは独学で遊びでしか弾いてないって言ったじゃないですか。それが卒業式の時に歌う学年合唱の伴奏を募る時、指揮をするのが同じ吹部のサックスの男の子だったんで「自分も伴奏やりたい!!!」と無謀にも立候補しちゃったんですよね。ピアノ経験者もいた中押し切って僕に決定して、さあそれからが大変。年明けの1月から3ヶ月間、独学で鬼の特訓をしました。運指は弾きやすように勝手にカスタマイズ、ペダリングも他の人がやってるのや音楽の授業中に先生が弾いてるの見様見真似、生ピアノは学校の音楽室でしか弾けないのでお昼休みにご飯をソッコーで片付けてダッシュ、家ではちゃちぃキーボードで練習…そんな日々の繰り返しでした。自分で立候補したくせに途中で弾けなくなって止まったらどうしよう…そんな不安をいつも抱えて練習してて、なんなら卒業式当日の朝も家のキーボードで練習しました。
本番当日のことは今でも覚えてます。何度か引っかかりかけたところはあったけど、音に関してはほぼノーミスでペダリングも上手くいって指揮もちゃんと見ながら最後まで弾ききったこと。マジであの時のポテンシャルは凄かったと思う。
卒業式では他に事前にケーキ1ホール作って持って行って、式後に吹部のパートのみんなに振る舞いました。(何してんだ)
……うーんやっぱ自分語りはしだすと止まりませんねえ。中学まででこの長さ、このまま高校に入るとヤバ沢さんなので一旦ここでシメて次回に持ち越そうと思います。
あ、中学までの最後に。
中学の時の吹奏楽コンクールでやった曲
中1 プレシエンス(B組)
A組はブルースカイとセント・アンソニー・ヴァリエーションをやってました。
中2 課:Ⅰ ブライアンの休日、自:トゥーランドット(後藤 洋編)
中3 課:Ⅳ 青空と太陽、自:第六の幸福をもたらす宿より 府代表→関西銅
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