隙あらば自分語り:後編

自己紹介という名の自分語り、後編。
ここからは高校以降を。(というか、高校メイン)


高校生。
まあ迷いなく吹奏楽部に入るんですけど(部活動推薦使ったんだし!!!)、今はどうなってるか知らないけど当時は経験者でもとりあえず大体の楽器を体験してみるみたいなやつがあって、僕もホルン以外にトランペットやチューバ、サックスやパーカッションとかを回りました。これでも一応第1希望はホルンだったので、「またアンブシュアがガタガタに崩れるんじゃないか」と内心ヒヤヒヤしながら吹き回っていました。まあ大丈夫でしたけど。
そして、サックス。多分アルト・テナー・バリトンどれも吹いたと思うんですけど、バリトンが思いの外いい音でゴリゴリ鳴った記憶しか僕にはなくて。そしたらそれに目を付けた当時部長のバリサクの先輩が「お!バリトンくる??」ともうここであたかもバリサクに決まってしまうかのような流れになり、とても焦りました。何とも断りにくい空気でもありましたし、まずいぞ〜〜と語彙を失って狼狽えていると、

「彼ホルンよく吹けるんでホルンの方が良いと思いますよ」

と、救世主の声。
それは、同じ中学で一個上のアルトサックスの先輩でした。もうほんとにナイスフォローすぎた。バリサクの先輩は「え〜そっか〜」とやや残念そうにしていましたが、この時自分は心底ホッとしていました。この先輩の一言が無かったらここでホルン人生は終わっていたし、この後の人生設計そのものも変わっていたでしょう。いやほんと先輩マジでありがとうございます。神です。
そんな訳で無事ホルンパートに辿り着きました。嗚呼良かった。
ホルンパートには僕の他にあと2人入って、どちらも前は違う楽器だった子でした。先輩は2年生1人だけで、経験者が僕と先輩の2人だけだったので僕も扱い方や基礎練などを一緒に教えました。
部の人数が少ない学校だったので、高1からコンクールに出ました。というか高校からホルンをスタートした同期2人も含めてやっと4人だったので全員で乗ってました。2,3ヶ月もしないうちに課題曲と自由曲を心折れずに吹いて、その後辞めずに最後までいてくれたのほんとにすごいしありがとう過ぎる。(最初の半年は絶対しんどかったと思う)

高1の冬に、中学で出た府の吹奏楽連盟の選抜バンドの高校版にオーディション受けて出ました(中学は2年の時だけなんだけど、高校は1年からオーディション受けられて、なんなら高3も進路次第では受かれば出れた)。中学の時はやっぱ義務教育ということもあったし、すごく学校単位で動いてるって感じで交流はあれど少し窮屈に感じることもあったけど高校では比較的自由だったと思うし、結構色んなパートと交流できたかなあと思います。
まああれかな、中学の時は基本先生の引率だったのが高校になったら各自集合・解散だったから毎回練習に行くのがプチ遠足みたいなとこあって、それこそ学年も色々混ざってるから色んな先輩や同い年と練習場の学校行ったり帰り道が楽しかったのかも。

高2になって、後輩が1人入ってきてくれて、夏のコンクールが終わってパート唯一の先輩が引退して、自分はパートリーダー兼金管セクションリーダーになりました。そっからは色々大変でした(それまでもまあ結構色々あったけど)。学生主体で運営する部活だったので、それはもうザ・高校生の部活って感じのぶつかり合いもたくさんありました。今劇場版が公開されている響け!ユーフォニアム程では無いけど似たような感じです。書き出せば止まらないし、主観もバリバリ入ると思うので詳細は割愛。でも今思い返せばこれが青春というやつかあ…ってなります。イライラしてたことすら懐かしく、愛おしく感じるやつ。ええそうです、僕は懐古厨ですとも。
あと個人的には同学年に男子が4人いたのも心強かったですかね(途中で1人辞めちゃったけど)。学年で5(6)人、多すぎず少なすぎずのちょうどいい人数だったと思います。家の方向は僕ともう1人が途中まで大体一緒なのを除けばバラバラだったけど全員自転車通学だった事もあって土日の部活終わった後はよく鴨川沿い下って河原町のJEUGIA行ったり京都駅のヨドバシカメラ行ったり、あと普通に遊びに行ったりもしたしなんだかんだで仲良かったです。部活中もよく遊びで男子だけで急に曲合わせでプチ合奏みたいな事もしてたし(何回か部長とかに怒られたけど笑)。彼らとは今でもLINEグループとかで繋がっていてたまーに連絡とったりします。嗚呼、これ書いてたら懐かしさで爆発四散しそう…

で、進路の話になるんですが高2のコンクールが終わった辺りぐらいから音大に行きたいと思うようになりだしました。音楽高校を諦めていた分、余計に強く行きたいと思うようになったんですね。そして、「吹奏楽でプロなりたい」という思いと当時はプラス「プロとして舞台で演奏している自分の姿を友達に見て欲しい」とかいうバチバチの承認欲求もありました。大学に行ってからオーケストラの世界の一端も知ってオケに興味を持つようになりましたが、現在まで志の根底はこの時から変わっていません。

しかし音楽とは無縁の我が家の家系ですから、当たり前ですが親は猛反対です。アホほど喧嘩しました。中学の時の顧問の先生にも相談しました。というのも、中学現役だった時に京都市交響楽団の澤嶋先生が夏休みに何回か見に来てくださったことがあったので直で相談できるだろうと思ったからです。
予想通り相談は出来ましたが、先生方ももちろん始めは反対されてました。特に澤嶋先生からは現職の立場から色々話してくださった上で「やめたほうがいいよ」と説得されました。けれどもはや我儘の塊であったであろう自分はそれでも「行きたい」と貫き、最終的には澤嶋先生が親と直接電話で話してレッスンには通わせてもらえる事になりました。

ただし。

大学受験は現役の1回のみ。

合格出来なかったら、音大浪人はもちろん、一般大学での浪人すら許されない。受からなかったら即就活して就職。
というまあまあヤバめな条件付きでの受験でした。

同時並行でピアノとソルフェージュのレッスンにも通い出しました。高2からの受験準備、しかも副科に関してそれが初めてのスタートとなるとその世界の人たちから見ればあまりにも突貫工事だったと思います。

志望校は、私大は音大じゃなくてもダメだったので自然と国公立に、そして当時近畿の国公立だと僕は京都芸大しか知らなかったので素人ながらそこを志望する事の無謀さを自覚しつつとりあえずはそこを目指して練習してました。ただ、高3の時にピアノの先生から「大教大って知ってる?」と聞かれ、知らないと答えた僕に「そこにも音大のような学科があるからオープンキャンパス行ってみたら?」と言い、情報源が確かに欲しかった僕は行ってみた結果、色々見て回った後直感で「あ、ここにしよう」と思い志望校を大教に変更しました。あと、学食体験で食べたうどんが美味しくって当時120円という安さに惹かれたというのもありましたがもちろんそれは二の次です。

部活はレッスンに通いつつも続けました。ちょうど代替わりした後で最高学年かつ役職もちだったにも関わらずレッスンで早退する事は多くなったし普段の練習も自分の練習を優先するあまりパート練習やセクション練習ではしっかり見るけど後は基本放置、みたいなことも多々あってそれは申し訳無かったなあと思います。

とまあそんな感じで練習に明け暮れていたのですが、高3のコンクール府大会前後あたりになんと母が緊急入院。詳細は省きますがコンクール前くらいから様子がおかしく、コンクール終わってからこれはやばいとなって救急車を呼んで病院へ。結果大病も大病だったのでそのまま入院。突如として擬似一人暮らしが始まってしまったのです。そしてこれが翌年3月の下旬に退院するまで続きました。そう、つまり受験の本腰が入る期間丸々一人暮らしになりったという訳です。
ここで受験・実技を第一に考えていた僕はそれ以外をこれでもかというくらいに蔑ろにしてしまいます。生活リズムも鬼ほど狂いました。授業は平気で休んで家で寝てるし、でも楽器の練習はしたいから授業時間終わってからこっそり音楽室に顔だして練習…という屑でしかないヤバ沢さん生活でした。おかげで成績と出席日数は大下降、ホームルームに至っては「あと1回欠席したらお前卒業できなくなるぞ」と担任の先生に言われる始末でした。それでも実技と副科のレッスンには何とか通い続けました。

そして、前期日程受験当日。特に緊張する事なく吹けたと思います。多分吹く前に試験官であった教授陣に「モーツァルトのコンチェルトは主題から吹いたらいいですか?」と尋ねて張り詰めていた空気を少し和らげられたのもあったかなと思います。今思えば何言ってんだコイツ状態ですね、でも募集要項に1楽章としか書いてなくて〜小節目からとか書いてなかったんだもんしゃーない。(課題だったモーツァルトの協奏曲第3番の第1楽章は主題の前にも数小節吹く楽譜があります)
緊張はしなかったけど、満足いったかと言えば話は別で、「うーんこれは難しいから後期に向けて練習せな」と自信無さげに帰りました(大体みんなそう)

3月、合格発表の日。ネット発表もあったみたいですが当時フィルタリングがかかった親のガラケーしか持ってなかったのでわざわざ大学に登山して見に行きました。合格でした。自分の番号を見つけた瞬間、声を上げるでもなく涙をこぼすでもなくじんわり笑顔になってその瞬間を噛みしめました。その様子は大学の人に写真に撮られて後に入学アルバムの合格発表のスナップショットの一つに採用されてました。恥ずかしっ
先生方と病院にいる親に連絡して、帰宅。帰ってきたらもう合格通知が郵便受けにぶっ刺さってたんだもの、びっくらこいた(お昼過ぎとか、夕方に来ると思ってた)。その日はその後普通に部活に行きました。笑

合格発表より少し前ですが卒業式があり、下旬には母も退院、そして月末に最後の吹奏楽部の定期演奏会で引退、高校生終了と相成りました。

ちなみにここまで楽器は実はマイ楽器じゃありません。ずっと部活の楽器、それもヤマハのダブルの1番安い、YHR-567というモデルでした(ベルカットですらない)。入学した後から話を聞けば、管の同期で学校楽器を携えたその姿に驚いてた子もいたとか。念願のマイ楽器は大学の入学式が終わったその足で楽器屋さんに行って選定してもらい、買ってもらいました。

あとめちゃくちゃ部活とか音楽の筋で話書いちゃいましたがそうじゃない、クラスにいる時も普通に楽しくて、部活外での友達もたくさんできたし、テスト週間にカラオケ三昧な日々も送ったこともあったし、卒業時には友達と有馬に旅行に行ったりもするなど、結構充実してました!


大学では。
大学生あるあるでぐうたらが過ぎる事も多々あり、皆様に迷惑をかけまくる超超問題児でした。関係各所の皆様本当に申し訳ありませんでした…。高校生がほんと波瀾万丈過ぎて(特に最後らへんが)大学生時代は書くことがこれくらいしかない…後は留年して5回生やったことと大学院受かって現在に至ったことくらいか(留年したんかい!!!)(めちゃくちゃはしょるやん)。
あ、これこれ。
2回生の終わり頃にフィルハーモニック・ウインズ大阪(オオサカン)にレコーディングで初めて呼んでいただき、そこから研修生として現在までお世話になっています!高校生の時に聴きに行っていた楽団に演奏する立場でいるとは思ってもいなかったのでとても有り難いです。吹奏楽の世界を広げ続けさせてもらってます。
オオサカンの公演のお知らせなど、またブログや各SNSで告知すると思います。みんなコンサート聴きにきてねーーー!!!



そんな感じの人生を歩んできております。
大長文、ご精読ありがとうございましたm(_ _)m


あ、最後に。
高校時代の吹奏楽コンクールでやった曲を。

高1 課:Ⅳ 汐風のマーチ、自:ウィズ・ハート・アンド・ヴォイス

高2 課:Ⅰ マーチ「ライヴリー・アヴェニュー」、自:マゼランの未知なる大陸への挑戦

高3 課:Ⅳ マーチ「希望の空」、自:海の男達の歌



自分語りおしまい。






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