まずはこちらをご覧ください。
最高じゃないですか???
多分今までホルンを撮ってていっちばん綺麗に撮れた気がします(自画自賛)
せっかくなので、早速ロック画面にもしました。
ひゅー、カックイイ。
さて、今回はここ数日TwitterのTLを眺めていて吹奏楽というワードで結構荒れていた(?)ように感じたのでそれを何となく追っていた中で考えたことを書こうと思います。
ここまで吹奏楽というのが学生時代と社会人のそれで変なギャップを感じ、やんやと言われ、おまけにオケと比べられがちなのか
という疑問をTLを眺めていて漠然と持ち、
単純にそれぞれのサウンドスケープの問題だけではなく、
(小学校・)中学・高校での部活が出発点の場合の管弦楽と吹奏楽でスタートから発達までの素地が違うのではないか。(ここ重要。大学からは始めるのとはまた違う気がするので以下の文章は全てここ基準でお願いします)
と考えて、オケと吹奏楽でどう環境が違うのか自分なりに考えてみました。オケの世界は大学入ってからの6年でしか見てきてないし、吹奏楽も全てを網羅している訳でもなく、偏見も多分に入ってると思います。プロになりたいと思っている人間がこんな浅はかな、狭い考えしてるなんて!とも思うかもしれません、でもどうしても今の時点での自分の気持ち・考えを言語化したかったので書きます。
推敲ほぼなしの垂れ流し書きなので、優しく見守ってください。
あくまで個人の考え方であり、絶対ではないことをどうかお心留めの上お読みいただければ幸いです。
・トレーナー(指導者)
オケ→各楽器(弦は種類毎もあり得るか)、少なくとも木管・金管・打楽器・弦楽器単位にはトレーナーがついてることが多い。
吹奏楽→全体のバンドトレーナーとして複数人、パート毎もいる場合があるが各楽器全てにわたってトレーナーが充実しているとは言い難い
・レッスンなど
オケ→パートレッスンはもちろん、個人レッスンも積極的にしているイメージ。団体内だけでなく本当に“個人でも”レッスンを受けに行っている。
吹奏楽→パートレッスン(その中で一部時間を割いて個人の確認もするが)、全体のバンドレッスンがほとんど。強豪と言われる学校になると個人レッスンもあるだろうが多くの公立の学校ではそこまで時間と経費がなかなか割けない所があるのも事実。進路が音大関係でなければ個人で楽器のレッスンに通うのは少数派。
そして、吹奏楽で顕著なのが「基礎合奏」という習慣。これの内容や頻度によって後々の技術差や個人のソルフェージュ・表現能力に大きな差が出る。また、管楽器が吹奏楽の編成の9割を占めるという特徴から、ここの差が大きいとバンド全体の音に顕著に影響してしまう。
オケだと《吹奏楽のような》基礎合奏はまずほとんど見当たらない。(ハーモニーディレクターも日本吹奏楽独自の産物)チューニングをし、それが済めば曲の合奏が開始。編成の性質・特徴もあってか個人のソルフェージュの差による乱れには吹奏楽と比べると比較的目をつぶれるか。(あくまで平均的に見た話)
また管楽器においてはオケと吹奏楽で標準編成人数がそもそも違うので、人数が増える分音をまとめるのが大変。(小編成になるとそれはそれでまた別方向での大変さが生じるのだが)
⇒吹奏楽とオケで始めるにあたっての土台・上達していくためのプロセス(?)に結構な差を感じる
・圧倒的な歴史の差
管弦楽には古典・ロマンなどの時代ごとのスタイルの区分(派)があり、さらにその中から難易度も様々なものから選べる。蓄積量がまず違うので曲の被りを気にしなければ選択肢に困らない。
また、スタイルごとの表現法を学べるところも歴史の蓄積量によるところ。
吹奏楽は世界的に見てもまだ歴史が浅く、日本に入ってきてからではまだ150年という覆しようのない事実があり、まずレパートリー量で圧倒的差を付けられる。さらに、最近でこそ少子化の影響で小編成の曲もさかんに演奏されるようになってきたが、グレードという概念の存在からどうしても技術的技巧・表現的技巧を求められる大曲にまだまだ注目が集まるのもまた事実。特に日本ではコンクールの存在から人気曲で固まってしまう傾向も。(コンクールを否定しているわけではない)
どうしても音の処理・音程・フレーズではなく音符単体に付けられたアーティキュレーションといった細かい部分にばかり耳がいってしまい、なかなか全体像や表現のスタイル(といってもオケの模倣、もしくはそれに準じた方法が多く、吹奏楽独自のフレージングスタイルというものは歴史的な浅さがあることは否めない)にまで踏み込めないことも。
・部活の気質や曲に取組む量の違い
特に中高の吹奏楽部は「"教育"としての課外活動」の色が強いので、日常社会における社会性、特に礼儀・礼節を重じている傾向が強い。またいわゆる強豪ではない公立校(これは強豪と言われる所も私立も同じだとは思うが、特に強く印象を感じるものとして)はいかに地域貢献や演奏貢献ができるかで部に対する支援の差が広がってしまうところがあるのでどれだけを本番を獲得し、多くのレパートリーを演奏できるかが必要要素となってくる。それゆえ、曲数を増やし、本番をこなすことが必然となり、一曲一曲の仕上がりにムラが出てしまうこともある。
また、夏のコンクールでは大曲に挑戦できる者とできない者が出てくるパターンが多い。ここに経験・共有の差が生まれ、特にこれよる差は大きいものとなることが多い。そしてコンクールのための指導はいくら賞の色を気にしないと言っても結果のためにはどうしても厳しくなってしまいがちで、しかし改善点を解決するために頼れる楽器ごとの指導者が恒常的にいるわけではなく、どうすれば良いかわからず指揮を振る先生の厳しい指導を耐え抜く日々を過ごしてしまう生徒も少なくない。これで更に差を広げてしまう可能性もある。
オケは吹奏楽部ほどではないが、ちゃんと組織はありその中で活動することで社会性は養われる。所属部員全員が何かしら乗り番を与えられて出られるとすれば年に1,2回ほどの定期公演くらいで、かつ取り組む曲が、例えばメイン曲が交響曲の場合だと吹奏楽でよく好んで演奏される曲の4〜5倍の分数はかかってしまうので(吹奏楽だとコンクールの影響もあって7〜12,3分程のカットがしやすいもの)自ずと仕上げにかける時間も長くなる。他だと室内楽アンサンブルで何人かに分けて組んで演奏する程度か。室内楽を除けば技量の差はあれど長い期間共に大曲に取組むので、曲に対する経験の共有がしやすい。
また、以上から吹奏楽部のような団体行動よりかは、演奏することのウェイトの方が大きいように思う。
・演奏会(コンサート)そのものに対する意識
吹奏楽部は、強豪校の演奏会や友人がいる別の学校の演奏会には積極的に足を運ぶが、プロのウィンドオーケストラの演奏会にはなかなか足が及ばない…ということが多いように感じる。部活単位で団体で聴きに行くことはあれど(もちろん仕方のないことではあるが個人の都合があるので全員とは限らない)、個人としてプロのウィンドオーケストラ公演に行くということは控えめな印象。(もちろん行っている人は行っているし、トレーナーが現役のプレーヤーというケースもあるので後述のオケのようにその先生が出演する演奏会に足を運ぶ子だっていることは認識はしている)
一方オーケストラはトレーナーの先生が現役のプロオケ奏者ということも多く、その先生が所属するオケの演奏会やソロ・室内楽を聴きに行くことが多いように思う。また、有名なソリストが出演するコンサートにも都合があえば(もしくは合わせて)足を運ぶことも多いのでは。
吹奏楽部はよく聴きに行く他校や自身の学校が開く演奏会は無料、オケは有料とでそれぞれ傾向があり(もちろん絶対ではない)、それ故か吹奏楽はお金を払って聴くものという価値・考え方がオケに比べて薄く、プロウィンドオーケストラや社会人になってからの一般吹奏楽団での有料公演の際の集客の苦労につながってしまっているのではないか。
強引な気もするがそれも承知の上で、このように楽器を、合奏を、音楽を始める素地が吹奏楽と管弦楽で差があるのをはじめとした上述までに加え、吹奏楽では一夏のコンクールにかける必死さから、いわゆる「燃え尽き症候群」で大学以降は楽器そのものから遠ざかってしまう人も少なくない。そういう人は時を経て楽器を再開したとしても定期的な合奏を行う集団などにまで戻るには時間がかかる人もいるだろう。また、そんな吹奏楽“部”の活動に嫌気がさしてオケに転向するケースも見られる。
管弦楽は集団としてのコンクールという概念が存在しないので、大体の人は大学・社会人になっても吹奏楽部のような燃え尽き症候群にはならず楽器を何かしらで続けるし、どこかしらのオーケストラ団体に所属し合奏も続けるだろう。
日本での吹奏楽は音楽の1ジャンルというよりかは「部活動」として見られる事が強く(それゆえ作曲家あるあるはあっても吹奏楽あるあると言っているものは吹奏楽"部"あるあるに過ぎないと思っている)、大人になってその枠組みは取り払われたはずなのにやはり活動の本質的な内容は帰結的になってしまうことがあり、また枠組みが取り払われた分最初の方で述べた経験の差の開きが程度の差はあれ壁として立ちはだかり、同じ団体の中でも熱量の差、取り組みの共有が不明瞭になっていき、ホールを押さえての、身内以外の不特定多数の集客を必要とする演奏会の開催やその有料化が困難なのではないか。(もちろん単純に吹奏楽がしたい人向けの受け皿的な活動コンセプトがある団体があるのも知っているし、そこにいる人たちはおおよそ同じ足並みで活動している。ここはあくまでそうでない一般吹奏楽団が活動の中で演奏会をするとしての話)
僕は、吹奏楽が好きだ。今の道を目指す源流にもなっている。
そして個人としては中高の時点で「吹奏楽」というジャンルを通して人間的にも音楽的にもすごく良い活動を、演奏をしている吹奏楽部も、社会人になってからも様々なコンセプトに基づいて合奏・音楽活動をしている一般吹奏楽団体がたくさんあることも知っている。(と同時に後者の方はオケと同じく団体乱立問題にも関わってくる気がするがそれは割愛)
しかし今どうしても吹奏楽が「子供たちのためだけ」の方向に向いてしまっている気がしてならず、それはここまで述べた事が数十年という管弦楽から見ればあまりに短い期間ではあるがそれだけ続いてしまっているのが原因なのではないかと感じている。
大人になって吹奏楽“部”から抜け出した後も吹奏楽そのものの価値をしっかり保持し続けていけるために、プロのプレーヤーはもちろん、指揮者・指導者も含めてレパートリー研究を行い、教育目的以外での、純粋な音楽としての吹奏楽の価値を提供できるように努め、また吹奏楽を始める上での素地が今以上に充実したものになるよう動いていくのが学生時代と社会人になってからの吹奏楽ギャップを少しでも解消する課題なのだと思う。
以上、持論でした。
ちなみにこの殴り書きをPagesにコピペして文字数見てみたら3500字を超えていました。レポートかよ。
けどこれから立ち向かう修士論文はこれの4〜5倍の量を更に推敲を重ねた上で指導教員の添削を受けながら直し、来年の1月中旬までに仕上げなければならないという事で頭抱えています。
寝まーす。
おやすみなさい。
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